— どうすれば自然でわかりやすい和訳になるか —
■あいさつ編:“How are you?”の和訳は難しい?
英語でのあいさつといえば定番の “How are you?”、
メールでの書出しや誰かと出会ったときの最初の会話としてよく使用されますね。
たとえば、久しぶりに知人に出会った人が相手に向けて言った、
“How are you?”
を和訳するとします。
たった3つの単語で構成された英文、さて、どう翻訳すればいいでしょうか?
A:元気?
出会った人は話者の親しい人だったと思われます。あるいは、年下の人だったのでしょうか。どちらにしても、丁寧な表現を使わなくてもよい関係の人のようです。
B:お元気ですか?
丁寧な表現を使っているので、出会った人はおそらく目上の人、年上の人だったようです。あるいは、同年代だけれど、それほど親しくない人かもしれません。
英語ではいずれの場合も“How are you?” なのですが、これを和訳する場合には上記の通り、人間関係に対する背景事情の理解が必要です。別の言い方をすれば、そうした理解がなく機械的に和訳した場合、意味は合っていたとしてもどこか「しっくりこない」、「違和感のある」和訳となってしまいます。誰でも知っている “How are you?” ですが、実は何通りにも訳せてしまう、翻訳するのが難しい言葉なのです。
■敬語編(尊敬語と謙譲語):電話の相手は?
それでは、こちらはどうでしょうか?会社で電話対応をしている人がいます。○○部長が在席しているかどうかを尋ねられた彼女は、こう答えました。
“He is currently out now.”
この場合も “How are you?” のときと同様、電話をかけてきた相手、さらに○○部長と電話を受けた人との関係によって異なる和訳が考えられます。
A:○○はおりません。
このように和訳した場合、電話をかけてきた相手は社外の人だということが想定されます。なぜなら、自社の部長に対して「いる」ではなく「おる」という謙譲語を使っているからです。また名前の後に肩書や敬称をつけていないことからも、相手は社外の人だということがわかります。
B:○○部長はいらっしゃいません。
この場合は自社の部長に対して「いらっしゃる」という尊敬語を使っています。そのため、電話をかけてきた相手は社内の人だろうと想定されます。
”He is currently out now.” というシンプルな一文を正確に和訳するには、“He” と話者の関係を理解して、日本語の適切な表現を使用する必要があります。今回もやはり、単純に訳すだけ、では済まないケースです。
■「日本語ならでは」の言葉遣いがある
これまで述べてきたように、日本では家族や同じ職場の人など「身内」であるか、そうでないかによって、尊敬語と謙譲語を使い分ける習慣があります。また年齢や性別、社会的な立場の違いによっても、言葉遣いに多様な変化が生じます。
例えば、最初に挙げた “How are you?” であれば、上述の和訳以外にもさまざまな訳し方が可能で、それぞれが「誰と誰が話しているか」についての重要なヒントになります。
「お元気?」と和訳すれば上品なご婦人同士の挨拶のようなイメージに、「元気かね?」とすれば厳粛な老紳士が若者に話しかけているかのような印象になりますね。また「お元気でいらっしゃいますか?」にすれば、Bの例よりもさらに丁重に接しなければならないような関係の相手であるということが分かる文章になります。
さらに言えば、日本語はこうしたバラエティに富む言葉遣いがある言語だからこそ、わざわざ主語を書かなくてもよい、むしろ主語が無い方が自然、という性質があるのだと考えています。
また、2番目の電話対応例の場合では、Bと同様に電話の相手が「社内の人」だったとしても、その人が話者と同等か下位の立場の人であれば、「○○さん(○○部長)はいないよ」という翻訳もできるでしょう。さらに、○○部長が話者よりも下位の立場だった場合(部長以上の立場の人が外線電話に出ることはあまりないかもしれませんが…)、「○○さん(○○部長)」ではなく「○○君」と呼ぶことがあるかもしれません
■翻訳するうえで「言葉遣い」(トーン)は重要なポイント
これらはつまり、日本語の文章では、尊敬語・謙譲語・丁寧語の使い分け、さらには語尾に付ける「よ」や「ね」というたった一文字によって、その人の人物像がある程度わかってしまう、ということです。
しかしながら、文書の種類によってはこうしたルールが当てはまらない場合もあります。たとえば、商品の説明書の場合、読み手が該当の商品を購入した「お客様」であっても、丁寧な表現よりむしろ簡潔な表現の方が重視されます。また、企業間の取引契約書であれば、取引上の上下関係には関わらず常体(だ・である調)が一般的です。さらに、プライベートな交流においては、親しい関係で普段はいわゆる「ため口」で話している相手であっても、手紙やメールのやり取りでは丁寧語(です・ます調)で書く、という人も多いのではないでしょうか。
外国語を日本語に翻訳する際には、このような日本語独特の言語文化にも注意して表現を選ぶことを心掛けなければなりません。たった一言の表現で、その文章が表す背景事情を一瞬で表現することができる、それが日本語の特長であり、翻訳者がつねに気を遣う部分でもあります。
記載されている言葉の標準的な意味合いだけではなく、その背景にある事情を理解し解釈しなければ、自然でわかりやすい翻訳はできません。この「背景事情の理解と解釈」こそが、人間が行う翻訳の醍醐味ではないでしょうか。特に、シンプルで直接的な表現が好まれる英語から、人間関係に応じて表現を繊細に変化させる日本語への翻訳を行う場合には、一層の注意と気配りが必要だと考えています。
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